Difference between revisions of "Sai On"

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<!--尚敬7(1719)年,尚敬王の冊封使渡来の際,評価(冊封使節一行の持ち渡り品の王府一括買い上げ)でもめたが,交渉に当たり無事決着させた。同12年正史『中山世譜』を重修。同16年三司官(本土の家老などに相当する首里王府の要職,定員は3人)となる。同20年他の三司官などと連名で領民向けの道徳経倫の書『御教条』を発布。同22年首里王府を批判する密書が薩摩在番奉行所へ投げ込まれるという事件が起き,首謀者の和文学者平敷屋朝敏,友寄安乗ら15人を処刑。蔡温の施策に対する反感とする見方もある。同23年羽地間切(現在の名護市)の羽地大川改修の命を受け,8月から11月まで現場で指揮に当たった。また用材確保のため山林の保護育成に取り組み,「杣山方式帳」「山奉行所規模帳」を編集,公布した。また同年慶長以来の検地に取りかかっている(~同38年,元文検地と呼ばれる)。尚穆1(1752)年三司官を辞したが隠居は許されず,5年後,冊封を終えてようやく隠居が認められた。著作に『家内物語』『独物語』『自叙伝』など和文の書,国政や儒学的思索を説いた漢文の『図治要伝』『簔翁片言』など多数ある。 島津侵入後の琉球社会の改革に先鞭をつけた向象賢(羽地朝秀)の路線を受けて近世琉球を確立した人物と評されている。経済的には王府の自給体制を高めるため,殖産興業の振興を図り,農業の改良に取り組み,山林の保護育成を図った。また国家経営の理論的支柱に儒教をすえ,士民へも儒教道徳の浸透を図った。のちのちまで「蔡温以後三司官は4人いる」といわれたが,その路線と著作を通して,後代の当路者が国家運営に当たったことを象徴している。<参考文献>真栄田義見『蔡温』,崎浜秀明『蔡温全集』,伊波普猷他『琉球の五偉人』 -->
 
<!--尚敬7(1719)年,尚敬王の冊封使渡来の際,評価(冊封使節一行の持ち渡り品の王府一括買い上げ)でもめたが,交渉に当たり無事決着させた。同12年正史『中山世譜』を重修。同16年三司官(本土の家老などに相当する首里王府の要職,定員は3人)となる。同20年他の三司官などと連名で領民向けの道徳経倫の書『御教条』を発布。同22年首里王府を批判する密書が薩摩在番奉行所へ投げ込まれるという事件が起き,首謀者の和文学者平敷屋朝敏,友寄安乗ら15人を処刑。蔡温の施策に対する反感とする見方もある。同23年羽地間切(現在の名護市)の羽地大川改修の命を受け,8月から11月まで現場で指揮に当たった。また用材確保のため山林の保護育成に取り組み,「杣山方式帳」「山奉行所規模帳」を編集,公布した。また同年慶長以来の検地に取りかかっている(~同38年,元文検地と呼ばれる)。尚穆1(1752)年三司官を辞したが隠居は許されず,5年後,冊封を終えてようやく隠居が認められた。著作に『家内物語』『独物語』『自叙伝』など和文の書,国政や儒学的思索を説いた漢文の『図治要伝』『簔翁片言』など多数ある。 島津侵入後の琉球社会の改革に先鞭をつけた向象賢(羽地朝秀)の路線を受けて近世琉球を確立した人物と評されている。経済的には王府の自給体制を高めるため,殖産興業の振興を図り,農業の改良に取り組み,山林の保護育成を図った。また国家経営の理論的支柱に儒教をすえ,士民へも儒教道徳の浸透を図った。のちのちまで「蔡温以後三司官は4人いる」といわれたが,その路線と著作を通して,後代の当路者が国家運営に当たったことを象徴している。<参考文献>真栄田義見『蔡温』,崎浜秀明『蔡温全集』,伊波普猷他『琉球の五偉人』 -->
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His ''Sai On jijoden'' (蔡温自叙伝) is believed to be the only autobiography written during the time of the Ryûkyû Kingdom.<ref>Ch'en, Ta-Tuan. "Investiture of Liu-Ch'iu Kings in the Ch'ing Period." in Fairbank, John King (ed.) ''The Chinese World Order''. Cambridge: Harvard University Press, 1968. pp150-151.</ref>
  
 
==References==
 
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Revision as of 18:04, 2 May 2013

Stele dedicated to Sai On, at the Shiseibyô in Kumemura.
  • Born: 1682/9/25
  • Died: 1761/12/29
  • Japanese/Chinese: 蔡温 (Sai On / Cai Wen)

Sai On was a Ryukyuan scholar-aristocrat, and among the most prominent and influential government administrators in the history of the Ryûkyû Kingdom. While serving as a member of the Sanshikan, Sai On implemented numerous policies and reforms, and composed a number of influential treatises on subjects including the Confucian philosophies of governance, and forestry and agricultural policy.

Life and Career

Sai On was born in Kumemura, the son of scholar-bureaucrat Sai Taku (蔡鐸) and his wife Magozei (真呉瑞). He was granted the title of Gushichan ueekata 具志頭親方, and in 1708 traveled to Fuzhou, where he stayed (at the Ryûkyû-kan) and studied for two years.

He became the chief tutor to the Crown Prince in 1711, and remained his tutor and advisor when the prince succeeded to the throne as King Shô Kei the following year. He was therefore granted a residence in Shuri.


His Sai On jijoden (蔡温自叙伝) is believed to be the only autobiography written during the time of the Ryûkyû Kingdom.[1]

References

  • "Sai On." Asahi Nihon rekishi jinbutsu jiten 朝日日本歴史人物事典. Asahi Shimbun-sha.
  • "Sai On." Okinawa Compact Encyclopedia 沖縄コンパクト事典. Ryukyu Shimpo, 1 March 2003.
  1. Ch'en, Ta-Tuan. "Investiture of Liu-Ch'iu Kings in the Ch'ing Period." in Fairbank, John King (ed.) The Chinese World Order. Cambridge: Harvard University Press, 1968. pp150-151.