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Thus, in contrast to the ''[[benzaisen]]'' which were the typical vessels in commercial shipping in the Edo period, ''sekibune'' were the standard martial ship.
 
Thus, in contrast to the ''[[benzaisen]]'' which were the typical vessels in commercial shipping in the Edo period, ''sekibune'' were the standard martial ship.
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また関船は、江戸時代を通じて技術的な発展が全くみられなかったのも大きな特徴で、この点が海運の隆盛に対応して改善を重ねていった弁才船との大きな違いであった。もちろんそこには、幕府の諸大名に対する抑制策があったにしても、十七世紀末以後になると諸大名も水軍力向上の意図を完全になくしていた。したがって関船の発達停止は、徳川三百年の泰平の象徴ともいうべきものであり、それだけに軍船としての本質からはずれてしまったために、幕末の海防の危機に対処するにはあまりにも旧式で、全く用をなさなかった。こうした水軍の実状から、幕府をはじめ諸大名は近代的海軍の建設を痛感し、西洋型軍艦の建造に腐心したが、それもまに合わず、結局、多数の蒸気軍艦を輸入してあてるに至って関船は完全に見捨てられ、文久二年(一八六二)幕府が天地丸以下の関船を廃棄処分したことによって、長い関船の歴史はとじられたのである。→軍船(いくさぶね),→御座船(ござぶね),→早船(はやふね)
 
また関船は、江戸時代を通じて技術的な発展が全くみられなかったのも大きな特徴で、この点が海運の隆盛に対応して改善を重ねていった弁才船との大きな違いであった。もちろんそこには、幕府の諸大名に対する抑制策があったにしても、十七世紀末以後になると諸大名も水軍力向上の意図を完全になくしていた。したがって関船の発達停止は、徳川三百年の泰平の象徴ともいうべきものであり、それだけに軍船としての本質からはずれてしまったために、幕末の海防の危機に対処するにはあまりにも旧式で、全く用をなさなかった。こうした水軍の実状から、幕府をはじめ諸大名は近代的海軍の建設を痛感し、西洋型軍艦の建造に腐心したが、それもまに合わず、結局、多数の蒸気軍艦を輸入してあてるに至って関船は完全に見捨てられ、文久二年(一八六二)幕府が天地丸以下の関船を廃棄処分したことによって、長い関船の歴史はとじられたのである。→軍船(いくさぶね),→御座船(ござぶね),→早船(はやふね)
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室町時代、瀬戸内海の主要航路上の港湾を中心に設けられた海関所属の船から転じて、戦国時代から江戸時代にかけて使われた軍船の船型の呼称。安宅船(あたけぶね)より小型で軽快な行動力をもつ快速船で、周囲に防御装甲をもつ矢倉を設け、適宜、弓・鉄砲の狭間(はざま)をあける。安宅船とともに水軍の中心勢力を形成し、慶長一四年(一六〇九)安宅船が禁止されてからは諸藩の水軍の基幹勢力となった。一般に櫓四〇挺立内外のものを中関(なかぜき)と称し、大型のものは八〇挺立前後におよび、諸大名の御座船に使用された。徳川家光が建造した天地丸七六挺立はその代表的なもの。早船ともいい、小型のものを小関船または小早という。
 
室町時代、瀬戸内海の主要航路上の港湾を中心に設けられた海関所属の船から転じて、戦国時代から江戸時代にかけて使われた軍船の船型の呼称。安宅船(あたけぶね)より小型で軽快な行動力をもつ快速船で、周囲に防御装甲をもつ矢倉を設け、適宜、弓・鉄砲の狭間(はざま)をあける。安宅船とともに水軍の中心勢力を形成し、慶長一四年(一六〇九)安宅船が禁止されてからは諸藩の水軍の基幹勢力となった。一般に櫓四〇挺立内外のものを中関(なかぜき)と称し、大型のものは八〇挺立前後におよび、諸大名の御座船に使用された。徳川家光が建造した天地丸七六挺立はその代表的なもの。早船ともいい、小型のものを小関船または小早という。
 
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==References==
 
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*"Sekibune," ''Nihon kokugo daijiten''.
 
*"Sekibune," ''Nihon kokugo daijiten''.
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